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このときソニーが受賞したIEEEの「企業技術革新賞」は、「高度の技術を民生用および産業用の分野に効果的に適用し、発展させた功績により」授与されたものだった。

これに対して、40余年前に自らソニーを興し、トリニトロン方式のカラーテレビやVTRの商品化を陣頭で指揮してきた老齢の創業者自らが演壇に立ったのだ。 これで受けないはずがない。
もうひとつ、聴衆に受ける要素があった。 実はIさんの前に演壇に立った某米国企業のトップが、「自分の会社がいくら優秀な技術を作り出しても、外国企業がすぐにマネをしてしまう」という攻撃的なスピーチをぶったのだ。
これは栄えある授賞式の場にはちょっとふさわしくない内容で、会場も少しシラケ気味だった。 一方、Iさんが「こういう内容をスピーチに入れたい」と私に指示しておいたことがある。
それは「日米の経済関係が今日のように難しい状況の中で、日本企業のソニーに対して何の偏見も抱くことなく名誉ある賞を与えてくださったIEEEの皆さんに、敬意と感謝を表します」という一節だった。 直前のスピーチの内容が前記のようなものだっただけに、この二言は効いた。
IEEEという組織が、政治的な問題にこだわることなく、電気電子技術者の団体としての純粋な観点から受賞企業を決定したことを持ち上げる形になったのだ。 さすがはIさんだ。
読みが深いというか、ポイントを確実に押えている。 A4の用紙にして2枚半、わずか5分間程度のスピーチ原稿をIさんが朗々と読んでいる間、会場はこのソニーの創業者の声に耳を傾けて静まりかえっていた。
そのスピーチでは、まずソニーを受賞者に選んでくれたIEEEに対する感謝と敬意を表明した後、Iさん個人がソニーの創業者として前に同じ団体から受賞した「フアウンダーズーメダル」(Fouer'sMedal。 Founderは「創業者」の意)という賞のことにも言及した。 これらの賞は「コンシュー了(消費者)向け製品に最高の技術を投人した製品を届ける」「他人の模倣をしない」というソニーの企業理念の成果であって、独特の製品はそのような企業姿勢なしには生まれてこなかった、と少しだけ自賛しながら、最後に「いま私たちが歩んできた道を振り返ると、IEEEからいただいたこの賞こそ、私どもの会社を称えるのに最もふさわしい賞といえましょう…」という言葉で締めくくった。
スピーチが終わると、会場は一瞬の静寂のあと、万雷の拍手につつまれた。 ごく短いものではあったが、その原稿を用意した英語屋として、私はほっとすると同時に涙が出るほどうれしかった。

さてそうこうしているうちに、約10日間にわたった初めての海外出張は何とか終わった。 この間、随員としての私にはカバンの置き忘れなどの大失敗もあったが、現地でアテドにあたったソナムの社員がフォローしてくれた。
ずいぶん間抜けな小僧がついてきたと呆れられたかもしれないが、帰国してから、お詫びかたがた丁重な礼状を差し上げたので、その点についてはお許しいただけたことだろう。 心配していた英語の通訳も、まあ何とかなった。
当時の私の手帳を見ると、「西海岸のスタンダードな(つまり英会話教材のテープなどで聞き慣れた、という意味だろう)英語は9割方わかるようになった」とある。 実は、ニューヨーカーがしゃべるような早口の英語は、聞き取るのがかなりたいへんだった。
そういった英語に対応できるようになるのが今後の課題である、などということも書いてある。 ・出張中はさすがに頭も身体も疲れていたのか、言葉は聞き取れているのに、訳語がどうしても口から出てこないという問題もあった。
このあたりは、私の能力ではもう限界に近いところだったかもしれない。 ロサンゼルスからの帰りの便は、日本の航空会社の飛行機だった。
座席についてイヤホンを耳に入れると、落語が聞こえてきた。 私は心の中で快哉を叫んだ。
「日本語だ、日本語だ!もう英語なんか聞きたくもないや…」そしてカリフォルニアワインをしこたま飲んだ私は、そのまま東京までぐっすりと眠り込んでしまったのである。 忘れ得ない人々。
Iさんを支えた若手スタッフ優秀な前任者の存在。 Iさんを支えるスタッフには、いろいろな面で才に外けた人がいた。
なかでも、Iさんの英語屋として私の前任者にあたるSさんは、人格、能力の両面において際立っていた。 流暢な英語はネイティブスピーカー並みだし、人に接するときの物腰はやわらかだし、つねに沈着冷静な判断ができる。

才色兼備のすてきな奥様と可愛いお嬢さんがいて、家庭生活も充実している。 一方、後任の私はと言えば、通訳をやらせればドジばかり踏んでいたし、せっかちで意地っ張りだったし、当時はまだ独身で、彼女の一人さえいなかった。
Sさんとの共通点は、同じ北海道の出身だということくらいで、それ以外は月とスッポン、雲泥の差…。 異動した当初のころの私は「どうしてこれほど優秀な人の後任がボクなの〜」などと自問しては、何ともいいがたいコンプレックスに苛まれた。
会社のほうもさすがにその点を心配したのか、Sさんは私の異動後も数か月にわたって教育事業室の仕事に留まり、後任である私の指導にあたってくれた。 Sさんにしてみれば、もう何年も務めているこの仕事を離れて、1日でも早く海外営業の最前線に復帰したかっただろう。
なかなか独り立ちできなかった私は、本当に迷惑をかけてしまった。 Sさんとの性格や能力の差はいかんともしがたい。
そう思った私は、英語屋として自分なりのやり方を確立しようと努力した。 道産子には、「こんなもんでないかい」というのんびりした気性の良さがある。
その精神でいこう。 あせってみたところでしょうがない本人の自助努力に任せるしかない、とSさんも感じたのだろうか、私にはあまり細かいことは言わなかった。
ただし、要所要所で的確なアドバイスをしてくれた。 つねに笑顔を絶やさずに温かく励ましてくれるSさんの言葉を、本当に身にしみる思いで聞いていた私であった。

Iさんの通訳の席に立つとき、私はいつもSさんの冷静な立ち居振る舞いをイメージしながら仕事に臨んだ。 そうすると不思議に落ちついた。
Sさんはその後、海外営業に復帰したのち、是非にと頼まれて盛田会長(当時)の秘書を数年にわたって務めた。 現在ではふたたび「現場」に復帰し、部長職に就いたと聞いている。
強引なアシスタントIさんの英語屋をしていた4年半の期間、私の前の席にはつねに、Hさんという女性社員が座っていた。 私にとっては、自分自身の母親と妻を除けば、これまでの人生でいちばん多く会話を交わした女性である。
私とほぼ同年代の彼女は、Iさんの幼児教育事業担当のアシスタントをしていて、「鈴木メソード」(第7章「東洋医学とO歳教育」参照)で育成されたバイオリニストでもある。 東京の良家のお嬢様である彼女に対して、田舎から出てきた私はちょっとしたコンプレックスを感じていた。
Iさんの幼児教育の考え方や資料のありかについては、彼女に教えを請うた。 正直なところ、日々のやりとりの中で「こいつ、ずいぶんお嬢様なことを言うな〜」などとむかつくこともあった。
私も相当な頑固者だったから、意見が対立するたびにガンガンと言い張っては、Hさんを泣かせたことも何度かあった。


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